その後秋山真之は、イギリス駐在視察、1900年海軍省軍務局第1課員・・常備艦隊参謀となり、海軍大学校教官を拝命、1903年稲生季子と結婚し、翌年37歳で海軍中佐・第一艦隊参謀を経て連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、第一艦隊旗艦「三笠」に乗艦する。日本海海戦は、1905年5月27日~28日にかけて、対馬沖でのロシアバルチック艦隊と日本連合艦隊の戦いをいう。そもそも日露戦争は、国際社会では先進大国であるロシアと後進国東アジア極小国との戦で始めから勝負は決まっているとの見方が多かった。

1904年2月10日宣戦布告後満州、旅順などで日本は勝利し同年8月いわゆる「黄海海戦」・・・同一名の日清戦争と紛らわしいが、このロシア旅順艦隊との海戦がのちの日本海海戦の圧倒的な勝利の教訓となっている・・・でウラジオストック艦隊をも壊滅させ、世界が注目する中10月15日バルチック艦隊が、北露リバウ軍港を出航、日本海の制海権を取り戻すため遠路3万km超の大航海に出た。途中地中海入り口付近で、喫水の浅い船はスエズ運河経由、深い船はアフリカ喜望峰経由で別れ、マダガスカル島で翌年1月9日合流した。順調に行けば3月には対馬沖へ到着予定だったが、別途支援部隊の到着を待てとのペテスブルグ(ロシア政府)からの指示あり、やっと3月17日マダガスカル島を出発その間日本外交の効果もあり、主に中立国港への寄港がままならす、食糧、水、燃料も十分な補給が出来ず艦隊の士気は大幅に下がり、自殺者が出る始末。幸いこの動きは日本では逐一把握しており、連合艦隊は猛訓練をしている。

無人島が無くなるほどの艦砲射撃、バルチック艦隊の旗艦、戦艦、駆逐艦、巡洋艦、工作船、運送船、病院船などの形、色の見分け方、前年8月14日黄海海戦でのウラジオストック艦隊追撃失敗の原因を反省し、編隊の指示徹底、旗艦或いは司令長官不在の場合の指揮系統順位など想定できる全ての訓練を行い、特に艦砲射撃では、各艦で統一した目標設定を徹底した。例えば「三笠」では、主砲を先ず1発放ちその地点を割出し、各砲に即時正確な距離、方向、角度を連絡指示する方法。これだと一斉射撃まで遅れるが、その後は命中率は画期的に上がる。

黄海海戦では、命中率は1~2%であったが、日本海海戦では30%を超したといわれている。編隊では有名な敵前T字旋回(他国ではこれをα(アルファ)旋回ともいう)7段戦法など独創的な戦法でロシア艦隊を圧倒した。

バルチック艦隊38隻のうち、撃沈または捕獲から逃れたのは、巡洋艦4隻、駆逐艦3隻、特務艦3隻に過ぎない。対する日本側は沈没したのは水雷艇3隻のみである。

これらの作戦を立案したのが、秋山真之であり彼に一任したのが、東郷平八郎大将、参謀長加藤友三郎少将である。第2艦隊の参謀は、秋 山と同期の佐藤鉄太郎中佐であり、海軍兵学校では秋山か佐藤かと首席を争った俊英で、第2艦隊はバルチック艦隊の北方方面への逃亡をいち早く見抜き独自に頭を押さえ防いだ。

晩年は4男2女の子に恵まれたが、1918年海軍中将49歳で没(盲腸炎?)

余談だが、第2艦隊第4駆逐隊司令は、鈴木貫太郎中佐であり、第2次世界大戦最後の総理大臣(77歳)その人である。

この記事を書いた人

ちむらかつはる

地元高校を卒業後名古屋市場第二部上場会社へ就職し主に経理の仕事をし、夜間の大学へ通い卒業、38歳で地元ゼネコンへ転職 主に開発営業をして定年退職を迎えました。

満60歳で行政書士登録開業し、現在に至っています。

千村捷春 – who has written posts on 愛知県建設業許可申請なら建設業界経験あり!経理、不動産に強い!! ちむら行政書士事務所.