日露戦争における、最大の戦いは海軍では「日本海海戦」陸軍では「旅順要塞攻防」と言われている。
その日本海海戦で訓練、戦術、戦法全体を実質企画提案したのは、元伊予松山藩士秋山久敬(家禄10石取り・・微禄)の5男「秋山真之」である。
子供のころの真之は、ガキ大将で喧嘩や悪さをするやんちゃな性格だったが、子供ながら絵画が上手く短歌も好きで、近隣の秀才が集まった愛媛県立松山中学では2年で中退し、東京へ出て大学予備門(のちの東京大学教養学部)に入るため共立学校(のちの開成高校)へ入学するもまたもや2年で中退し、19歳で海軍兵学校へ入学(之は一説には家が貧しく授業料が無料なのと、9歳上の跡取り兄好古が、陸軍士官学校を卒業し当時陸軍騎兵大尉であったが、秋山家が、伊予水軍の末裔であり、海軍の食事は美味だとの勧めがあったといわれている。)入学時は成績55人中36番目で下位であったが、明治23年卒業時には、首席。兵学校時代の真之は、あまり勉強はしないが、試験の山掛けが巧く教師の性格や癖を見抜いて授業中の話し方態度で、試験問題を予測し殆どそれが当たったらしい。但し図書館の古今東西の合戦に関する本は徹底的に読み漁り、必要な箇所はすぐメモに取り整理整頓記憶した。
同年9月紀州沖でトルコ軍艦「エルトグロール号」が遭難し、実地練習の為「比叡」「金剛」と横須賀に滞在していた真之達は、遭難者69名のトルコ人を乗せてそのままイスタンブールへ、遠洋航海に出て、翌年1月2日到着。幸いにしてこれが真之にとって初の遠洋航海であり、何よりの実習であった。尚当時の紀州漁民の歓待ぶり、その後の応対は、トルコ国民の大歓迎を受け、120年経った今でも和歌山県とトルコは交流があり、対日関係は未だに非常に良好であるといわれている。
その4年後明治27年日清戦争が勃発し、真之は、通報艦「筑紫」に乗艦した、その任務は偵察、警備、護衛、通報、陸上砲台への砲撃など裏方支援である。
その海戦「黄海海戦」は、日本軍の圧勝であった。真之はそこで戦術、配置を調査分析し、全体の戦術、戦法は完璧だが、各艦の動作が不満であると断じた。
明治30年真之30歳、米国留学を拝命、本格的に海軍戦術研究を開始する。米国海軍大学校図書館から、海軍、陸軍古今の図書を読みふけって身につけた。
翌31年これも幸いなことに、アメリカとスペインの米西戦争が、サンチャゴ湾内で起き、観戦武官として、旗艦「ニューヨーク号」でその海戦をつぶさに観察した。この戦争は米軍の圧勝であったが、真之の報告書は、なぜ米軍が勝ち、スペイン艦隊が全滅したか、が詳細、的確、迅速に明快に書かれており海軍首脳部も絶賛した。現地では、艦の破損箇所、大きさ、大砲、魚雷の種類性能と各艦の配置、移動など徹底的に調査分析した結果である。
来月の「日本海海戦」へ続く